十年前——
俺たち兄妹は普通に暮らしていた。
父がいて。
母がいて。
友達がいて。
俺と妹は仲がよくて。
どんなところへ行く時も一緒で。
家では。
夕飯を食べて。
テレビを見て。
ゲームして。
風呂に入って。
歯を磨いて。
布団に入る。
全部ふたり一緒だった。
そこに特別な物などなかった。
それが特別に変わったのは神話戦争が起きたからだ。
父を失い。
母を失い。
友達を失い。
学校も、家も、街も焼け果てて。
俺たちはこの世でふたりきりの兄妹になった。
神に奪われた妹を捜して、十年。
再会は、最悪の形で訪れた。
1
位相をズラされた空間。
世界から隔離された誰にも見えないその場所で。
俺は、妹の、天華の、記憶を取り戻した。
目の前にいる彼女が十年前に行方不明となった妹——神仙天華。
学園に入学してから、もう一週間以上も一緒にいたのに。
今日の今日まで、彼女が妹だと気づけなかった。
それは俺の中から天華に関する記憶の大半が失われていたからだ。
正確には、奪われていた。
誰に?
神だ。
十年前、俺から妹を奪った神。
それどころか、妹の記憶までも奪った憎い神。
その、神(クズ)が。
「どーしたの? おにーちゃん」
嗤う。
嬉しそうに。
嘲るように。
挑発するように。
嗤う。
口角を吊り上げ、ニコリと、可憐な笑顔を作る。
俺の、妹の顔で。
「———」
憎悪で頭がおかしくなりそうだ。
天華の中にいる神の名はゼウス。
ギリシャ神話の最高神。
こいつは、十年前に俺から妹の肉体を奪った。
そして、何食わぬ顔で、この学園で再会したのだ。
教室で。
帰り道で。
クレープ屋で。
カラオケ屋で。
みんなと一緒に笑いながら。
内心で、まるで気づかない俺のことを嘲笑っていたに違いない。
「ねぇ、そろそろ離してよ。痛い」
「……」
言われて、俺はずっとゼウスの手首を握り締めていたことに気づく。
本当ならこのまま握り潰してやりたいくらいだ。
それどころか、殺してやりたい。
いくらでも、何回でも、延々と、可能な限り惨たらしく殺してやりたい。
だができない。
奴は今、天華の肉体を乗っ取っているのだ。
妹の体を傷物になどできるわけがない。
俺は、手を離す。
「もー痕になっちゃうよー」
ゼウスは手首を擦る。
こいつのひと言ひと言が癇に障る。
「殺すぞ?」
膨れ上がる殺意を抑えきれず、俺は無意味な言葉を口にした。
それがいかに意味がないかは相手も分かっているらしく、
「殺せる?」
ゼウスはただ口の端を吊り上げるだけだった。
俺は歯噛みし。
と。
『——殺そうか?』
内側から声がする。
俺に宿る魔神の声が。
(やめろ!)
バロールの戯言を全力で止める。
クソッ……殺せないのは俺が一番よく分かってる。
たとえゼウスに乗っ取られていようと。
俺に妹は殺せない。
それどころか、その体を傷つけることもできない。
最悪だ。
最悪だ。
最悪の仇に、最愛の妹を人質に取られた。
「そんなに睨まないでよ〜」
「どの口が……」
俺は舌打ちする。
「この口だよ。おにーちゃんの妹の口」
「俺の妹の口で勝手に喋るな」
「えーじゃあどうやってお話すればいいの?」
「死ね」
「会話になってなーい」
ゼウスはクスクスと笑う。
こいつの動作のひとつひとつにはらわたが煮えくりかえる。
「まぁおにーちゃんの言い分は全て無視するとして、本題です」
「本題?」
「そ。本題」
ゼウスはまた、ニヤリと笑う。
「おにーちゃんなら、あたしのお願い、聞いてくれるよね?」
「……」
『——おーおー、怒ってるなぁ、ライカ』
バロールのせせら笑いは無視する。
なにしろ言ってることが見当違いも甚だしい。
怒ってる——なんて段階は、とっくに超えてる。
「……あんまり調子に乗るな」
「ん?」
俺の呟きに、ゼウスは小首を傾げる。
天華の顔で。
天華の体で。
それ以上、何もするな。
俺は魔眼を発動する。
そして。
パキッ
「あれっ?」
ゼウスは己の手を見やる。
その手は石へと変化していた。
『石化』の魔眼。
この魔眼に魅入られた者は、その身を石へと変える。
『——いいのか? 石に変えちまって?』
(『石化』は任意でいつでも解除できる。問題ない)
何にせよ、ここでゼウスを逃がす手はない。
石に変え、ひとまず動きを封じる。
そのあとは、天華の中から神の魂だけを殺す手段を探す。
この場で妹を奪還する。
それで俺の十年は報われる。
「わっ! わっ!」
ゼウスはドンドン石化していく。
「おにーちゃ……」
やがて口も石になり、声も途絶えた。
「……」
やはり後味が悪い。
中身が何であれ、外見は俺の妹だ。
それを石に変えるのは心が痛む。
しかし、これでよかったはずだ。
ゼウスは「お願い」とやらを俺にしようとしていた。
それが何なのかは分からないが、きっと最悪なことに違いない。
おまけに俺はそれを断れない。
妹を盾に脅されたら、俺に逆らう術はないのだから。
どんな要求であれ、呑まざるを得なかっただろう。
そうなる前に先手を打った。
若干、状況に急かされた感は否めないが……。
いや、これが最善手だったはずだ。
何はともあれ、妹は見つかり、その身柄を取り戻した。
それは少なくとも俺にとってこの上ない成果だ。
『——おーい、石にしたのはいーけどよ。このあとどうするんだ?』
「そうだな……まずはここから出て」
俺は周囲を見回す。
ここは位相のズレた空間だ、とバロールは言っていたが、見た目はただの廊下だ。
周囲に人の気配はまったくない。
少し歩いてみると、見えない壁にぶつかる。
壁は透明で、その向こうにも廊下は続いているが、見えているだけらしい。
廊下の極一部を世界から隔絶して、俺とゼウスだけがいる空間を作り出していたわけか。
「バロール。ここから出る方法は分かるか?」
『——こう上手く力が出せない状態じゃ難しいな。全力で俺サマの魔術が使えりゃ一発でブッ壊してやれるんだが』
「……」
バロールの受肉が不完全なため、俺たちは魔眼以外の力を十全に発揮できない。
しかし、受肉を完全にするには、俺の肉体をこいつに明け渡す必要がある。
当然、そんな案は却下だ。
だが、そうなると困った。
「どうやってここから出るか……」
『——位相をズラした当人(ゼウス)をブッ殺すって手もあるぞ?』
「妹ごとか? 却下だ。死ね」
そう言い合いながら、俺たちが外へ出る手段を探していると。
不意に——肩を叩かれた。
「!?」
反射的に振り返ろうとして。
ぶにっ
頬に、思いっきり指がめり込んだ。
「……あ?」
「あははは! 引っかかった!」
くだらないイタズラを成功させ、笑う奴がいる。
石になっていたはずのゼウスだ。
彼女は何事もなかったような状態で間抜けな俺を笑い者にしている。
「……」
血管が二、三本切れそうだが、何とか感情を噛み殺す。
「なぜ動ける?」
「ん?」
ゼウスは小首を傾げ、指を引っ込める。
で、今度はその指を自分の頬に当て、クスクスと笑う。
「もーヒドいなーおにーちゃん。いきなり妹を石にしちゃうなんて」
「鬱陶しい物言いをしてないでさっさと答えろ」
「答えてあげる必要もないんだけど、まぁあたしとおにーちゃんの仲だし」
ゼウスはにやけ面のまま答える。
「なんと! あたしには変身能力があるのでーす! だから状態変化系の呪いとかは効果がないんだよー!」
「……ちっ」
確かにギリシャ神話において、ゼウスは己の姿を自在に変えている。
白鳥。
白い牡牛。
鷲(わし)。
果ては黄金の雨。
生物無生物を問わぬ変身能力。
自ら石に変化できる者が、石から元に戻れるのは道理。
つまりゼウスに『石化』は効かない。
(『支配』には『レガリア』の攻略が必要条件……『致死』は論外。『幻象』も今は意味がない)
俺は自分の手札を検索するが、どれもこの場では無意味な物ばかりだ。
『——何だ? 手詰まりかぁ?』
腹立たしいが、バロールの言う通り。
無傷で天華を奪(と)り返す手段は、今はまだない。
「ところでさー、おにーちゃん?」
ゼウスが一段低い声で俺を呼ぶ。
「!?」
全身を貫く悪寒に背筋が一瞬で凍りつく。
怒りに支配されていた体が刹那の内に指一本動かせなくなる。
死兆。
あるいは畏れで。
十年分の憎悪を軽く凌駕する恐怖によって、俺の心が竦んだ。
「あたし、神話代理戦争の監督者だって言ったよね? 要するに、この戦争が正しく行われているか監督しなきゃいけない立場なんだけどさー」
ゼウスはゆっくり話しつつ右手を広げる。
その視線で俺を縫い止めながら。
「主な役割は……禁戒(ルール)を破る悪い子にオシオキすることなんだよ、ね」
瞬間。
凄まじいエネルギーが、隔絶された空間内に荒れ狂った。
光が溢れ、空気が震える。
ざわめく大気が咆哮をあげる。
これは、雷鳴?
「戦闘行為は夜時間のみ。それなのに魔眼をあたしに使うなんて、ルール違反だよ」
ゼウスの右手に光が集束していく。
それはただの光の塊ではない。
雷。
稲妻だ。
その証拠に帯電した火花が、バチバチと空気を焦がしている。
それだけでも充分に恐ろしいことだが。
おそらく、あれはただの『雷』ではない。
『——おいおいおい、何だこのパワー!?』
(……『雷霆』だ)
ゼウスの『雷霆』。
天空神である奴の、そしてギリシャ神話最強の神造兵器。
その一撃は天地の万物を悉く焼き尽くすと云われる。
文字通り、世界を滅ぼす破壊力を持った神の雷だ。
放たれるまでもなく、ただそこにあるだけで感じる圧倒的な力。
この力を前にしたら、誰でも無条件で理解できる。
赦しを請う意味も、抗う術もない。
あるのは神の裁きを待つ時間だけだ。
動く意味も。
考える意味も。
何もかもがなくなる。
俺という存在そのものに意味がなくなる。
全てはゼウスの意向次第。
俺はただここに在るだけ。
俺がどうなるかはゼウスが決める。
人の運命は、神が決める。
そういうものなのだと、全身の細胞が理解していた。
…………ギッ
ギ、ギリ
奥歯が、軋む。
歯を、食い縛る。
無意味な、ものか。
「……ッ!」
俺は自分の脚を叩く。
震えることもできず脱力していた脚に、力を戻す。
ここまで来て、諦めてどうする!?
戦えッ、戦え!
ゼウスを殺し、天華を奪(と)り返せ!
勝ち目のなさに膝を折るくらいなら、みっともなく足掻いてみせろ。
戦わなければ、何も奪り返せないのだから。
(バロール)
『——何だ?』
(俺の体をくれてやる)
『——ああん?』
バロールは怪訝そうな声をあげる。
(キサマが十全に力を振るうには完全な受肉が必要だ。だから、俺と契約しろ)
『——契約だぁ?』
(そうだ)
俺はゼウスの『雷霆』を見据えながら、言う。
(俺の体は好きにしていい。その代わり、必ず俺の妹を救い出せ。それが俺の体を明け渡す条件だ)
『——もし体を明け渡したとして、俺サマが素直にキサマの言う通りにすると思っているのか?』
(ほかに手はない)
策を講じようにも時間も退路もない。
俺ではこの場でゼウスに勝てない。
だがバロールならば、あるいはゼウスにも拮抗し得るかもしれない。
こんな奴に希望を託すなど腹立たしいが。
(キサマの気紛れに賭ける)
『——ウヒヒヒャヒャヒャ! この俺サマに悲願だった妹の奪還を預けるつもりか!? まさに最低最悪の悪手だな!』
そんなことは自覚している。
ほかに手があるなら、こんな奴に頼むわけがない。
しかし、何もせずに死ねば、それこそ何も残らない。
だったら、最低最悪のギャンブルにだって賭けてやるさ。
「……いくぞ!」
俺は首から提げた十字架に手をかける。
これがバロールの受肉を妨げている。
こいつを引き千切れば、すぐにでも奴は俺の体を乗っ取るだろう。
だが躊躇う時間もない。
ゼウスは今すぐにでも俺を消し炭にできるのだ。
チャンスは、この一瞬にしか——
「なーんちゃって」
——ない、と思っていたら。
ゼウスは唐突に『雷霆』を消した。
「???」
何が何だか分からず、俺は目を白黒させる。
今の今まで俺を処罰しようとしていたはずが。
なーんちゃって、だって?
「……どういうつもりだ?」
「だから、冗談だってば」
ゼウスはケラケラと笑う。
「もー真に受けないでよー。あたしがおにーちゃんを殺すはずないじゃん」
「……」
真意が分からず、俺は沈黙を選ぶ。
俺を弄んでいるのか?
いや。
「というわけでさー、見逃してあげるから、聞いてくれてもいいでしょ? あたしのお願い」
「そういうことか……」
結局、ふりだしに戻るか。
どうやらこいつには、どうしても俺に聞かせたい「お願い」があるらしい。
「要求は何だ?」
「よーきゅーじゃないよ。お・ね・が・い」
ウインクしてきやがった。
また血管が切れそうだ……。
ゼウスは怒りを噛み殺す俺の顔を眺めながら。
「おにーちゃんたちさ、北欧神話と同盟組んだんだよね」
……もうバレたのか。
北欧神話のフレイヤを支配したのは昨夜。
本格的に同盟の話を彼女たちとしたのは今朝。
バレるのがやたらと早い。
監視でもされてたか?
いや、今はそんなことよりも。
「同盟(それ)がどうした?」
「その同盟、ギリシャ神話(あたしたち)も交ぜてよ」
「……」
そう来たか。
バトルロワイヤルにおいて、同盟関係というのは非常に重要な戦略のひとつだ。
常に多対一の状況を作れる同盟は、当然戦局を優位に進められる。
問題はいつ仲間が——あるいは自分が——裏切るかという点だが。
俺はそれを魔眼による『支配』でクリアした。
バロールは俺のやり方に随分と感心していたが……。
その同盟に、自分たちも加えろ、ということか。
「あたしとも仲よくしよ?」
「反吐が出る演技はやめろ」
「えー、演技じゃないよー」
「キサマの狙いは分かってる」
俺は吐き捨てる。
ゼウスの真の狙いは。
「俺たちに神話代理戦争を勝ち抜かせた上で——最後には、俺にギリシャの神格適合者以外の同盟者を自決させるつもりだろう」
俺の作る同盟は魔眼の支配によって成り立っている。
支配された者は、俺の命令に絶対服従。
当然、用済みになったあとで自決させることも可能だ。
もちろん、神話代理戦争の勝利自体には興味のない俺は、器とされた生徒たちまで殺すような真似をするつもりはない。
だが、妹を人質に取られて強制されたなら……。
俺が全て理解していることを承知の上で、ゼウスは友好的な笑みを浮かべる。
「あたしから出す同盟の条件は3つ。
1、ギリシャの神格適合者を神話代理戦争に勝利させることを優先する。
2、ギリシャ以外の神格適合者を積極的に斃していく。
3、ただし、ギリシャの神格適合者が誰か詮索してはならない。
この条件を守ってくれれば、おにーちゃんの望みも叶えてあげるよ」
「俺の望み?」
「うん——」
ゼウスは自分の慎ましやかな胸にそっと手を当てる。
「——神前天華(あたし)を、おにーちゃんに返してあげる」
「……!?」
思わず声を上げそうになるのをぐっと堪える。
妹が、俺の許に返ってくる。
それは俺の、究極の願いだ。
だが、神の言うことなど鵜呑みにできない。
「……信用できない。大体、神話代理戦争の勝利条件は、自分以外の神格適合者の全滅だ。ギリシャを勝たせるには、俺自身も死ななければならない。妹を俺に返すなど、ウソだ」
「そんなの心配しなくても、あとでこっそりおにーちゃんだけ生き返らせてあげるよ。人ひとり生き返らせるくらい簡単簡単」
確かに人を生き返らせるくらい、神の力ならば可能だろう。
それも結局はゼウスを信用できなければ、意味のない取引だ。
「……」
神を信用するなど不可能な話だ。
特にこの、ゼウスだけは。
しかし。
「………………分かった」
俺は、頷いた。
頷くしかなかった。
妹を人質に取られた状態で、これ以上の反(はん)駁(ばく)は無意味だ。
「やったー! おにーちゃんありがとー!」
ゼウスはわざとらしく喜んでみせる。
俺が頷くしかないと分かっていたクセに……。
クソが。
「それじゃ外に出してあげるね。あっ、それと言うまでもないと思うけど、あたしがゼウスだってことは誰にも言っちゃダメだよ?」
「そんなことは分かっている」
いかにゼウスといえど、地上にいる以上は受肉しているはず。
それはつまり、俺に宿るバロールがそうであるように、死ぬ可能性があるということだ。
敵対勢力からすればゼウスを殺すチャンスがあるなら、たとえ戦争参加者でなかったとしても殺しておきたいだろう。
それはギリシャ神話全体の弱体化につながるからだ。
「じゃ、戻るよー」
ゼウスはそう言って、パチンッ、と指を鳴らした。
瞬間、廊下にざわめきが戻ってくる。
左右を見れば、登校してきた生徒たちの姿がチラホラと見えた。
位相のズレが直り、元の世界に帰ってきたようだ。
「じゃあ雷火くん、これからもあたしのことは、天華、って呼んでね」
そう言ってゼウス——天華はにこっと笑って、びゅーんと両手を広げて去っていった。
おそらく教室に戻るのだろう。
「……」
俺は天華と逆方向へ歩き始める。
HRまでに気持ちを落ち着けなければ……とても同じ教室内で平静を保てる自信がない。
『——おい、ライカ』
その時、バロールが話しかけてくる。
途中から随分静かだった気がするが。
(何の用だ?)
尋ね返すと、バロールは、
『——お前、まさかあのゼウスって奴の言いなりになるつもりじゃないよなぁ?』
と、訊いてきた。
不機嫌さを隠そうともしない声音に、俺は逆に安堵すら覚えた。
バロールは、俺が妹を人質に取られて、腑抜けるのが厭なのだろう。
(安心しろ)
俺は答える。
断固とした意志を込めて。
(何があっても必ずゼウスは殺す。それだけは確定事項だ)
『——ハッ』
あっという間にバロールは上機嫌になった。
『——なんだお前、じゃあさっきのは全部ウソか?』
(あの状況ではああ言うしかない。だがあくまで従うフリだ)
俺は拳を握る。
今は表に出すわけにはいかない殺意を全力で握り締める。
骨がメキメキと鳴く音を慰みにしながら、俺はバロールとの会話を続けた。
(まずはあの最高神(ゼウス)に対抗できるだけの戦力を整える)
『——要するに、今まで通り『支配』で駒を増やすのか?』
(ああ、そうだ。特に重用なのはギリシャの神格適合者だ)
ゼウスは神話代理戦争の監督者であり、ギリシャ神話の代表者は別にいる。
そいつを支配できれば、俺もゼウスに対して人質を取ったも同然。
お互いの状況は五分に近くなる。
『——だが、ギリシャの神格適合者の正体は詮索するなと釘を刺されてなかったか?』
(向こうもそこがウィークポイントだと分かってるということだ)
『——なるほどな』
今後の方針はふたつ。
神話代理戦争を戦いながら敵神格適合者を『支配』し、ゼウスに対抗し得る「神軍」を作る。
同時に、ギリシャの神格適合者の正体を突き止め、これも『支配』して互いの状況をイーブンに持ち込む。
だが、それでもやっとギリギリ対等くらいだろう。
そこから先……本格的に妹を奪(と)り返すためには、またさらに一段上の策が必要になる。
(やってやるさ)
ゼウスに従えば妹を返すと言われたが、そんな口約束はまったく信用できない。
神にとって人間との約束など、ゴミみたいな物だからだ。
ゴミを捨てることに良心を痛める奴などいない。
その程度だ。
だから、俺も約束を信じない。
信じられるのは自分の力のみ。
必ずゼウスを斃し、妹を奪り返してみせる。
それがどれだけ困難なことかは分かってる。
だが、俺はむしろ自分に運が向いてきたとすら思う。
なにしろ最初は各神話の神を支配して、地道に妹を捜す予定だったのだ。
それがなんとゼウス(向こう)の方から正体を明かしてきた。
捜す手間が省けたというものだ。
俺の記憶を元に戻したこと。
正体を明かしたこと。
妹の体を奪ったこと。
十年前のこと。
奴が俺たち兄妹に課した所業の悉くを。
「赦しを請うまで後悔させてやる……ッ!」
2
「……なんてこと今頃考えてるんだろうなー、おにーちゃんは」
「何の話ですか、ゼウス様?」
「ううん、ただの独り言」
あたしは背後からの問いに軽く答える。
ここは何の変哲もない校舎の廊下だ。
たださっきおにーちゃんと話していた時のように位相をズラしている。
よほど「目」か魔術に特化した神でなければ、あたしたちの存在には気づけない。
当然、会話を盗み聞かれることもない。
この、密談にはうってつけの空間で。
あたしは後ろを振り返る。
そこにはひとりの少年が、膝をついた状態であたしを見上げていた。
彼の態度に驚きもせず、あたしは口を開く。
「ともかく、雷火くんたちとの同盟の件。ちゃんと覚えておいてね、アポロン」
——太陽神アポロン。
栄えあるオリュンポス十二神の一柱。
月神アルテミスの双子の弟で、狩猟の女神でもある彼女に劣らぬ弓の才能を持っている。
生まれた直後の大蛇ピュトン殺し。
『イリアス』に描かれた「遠矢の神」の由来。
アポロンの弓に関する有名な逸話はそんなところ。
けど、重用なのは太陽神としての神格だ。
太陽。
天に輝く偉大な力の象徴。
これを神格化しなかった神話はほぼ皆無と言っていい。
ゆえに太陽神は例外なく強大な力をそなえている。
その太陽神——アポロンこそが、第三次神話代理戦争におけるギリシャの神格適合者だ。
「念のため、もう一度確認しておくよー」
あたしはアポロンに念を押す。
「ひとつ、雷火くんたちに正体がバレないように注意すること」
「はい」
「ふたつ、雷火くんたちの動向は常に監視すること」
「はい」
「最後に三つ、前のふたつを守りながら、可能な限り彼を殺さないように援護すること」
「はい」
「よろしい!」
あたしは三本立てた指を引っ込め、代わりにパチパチと拍手する。
それにアポロンは少し苦笑しつつ、ふと彼はマジメな顔になって。
「しかし、最後の三つ目はいらないのでは? 援護するとなると、こちらも正体がバレるリスクが」
アポロンはまっすぐあたしを見て、言う。
こちらの指示に不満があるのではなく、単に予想される懸念を提言しているようだ。
「ギリシャの神格適合者がアポロンってところまではバレて構わないから。どの人間を器にしているかがバレなきゃいいの、怖いのは魔眼だけだしね」
きっとおにーちゃんはアポロンの『支配』を狙っている。
対フレイヤ戦は、フレイヤが結界を張っていたこともあって、その詳細までは分かっていない。
けれど、魔眼が視線を媒介にする能力である以上、対象が見なければいかなる能力も使用できないはず。
「あくまで長々距離からの援護射撃に徹すれば、そう簡単に正体はバレないと思うから」
「思うからって……ゼウス様、テキトー」
「あははっ、まぁ大丈夫だってー。きみなら島中全域が射程範囲内でしょ?」
「まぁ、そうですけど」
銀弓神(アルギユロトクソス)の異名を持つアポロンは軽く頷いた。
その軽さが、逆に彼の自信の深さを垣間見せる。
あたしはクスッと笑って、唇に指を当ててみせる。。
「有能な犬(わん)ちゃんはね、生かさず殺さずが基本だよ? 雷火くんたちには殺せるだけ神格適合者たちを殺してもらって、最後は仲よく自決してもらえば、労せずしてギリシャ神話(あたしたち)の勝利だもん」
必勝の策を披露しつつ、あたしはその場でくるくる回る。
意味はない。
強いて言うなら、楽しいからだ。
少し、浮かれている。
おにーちゃんが来たからだ。
それが、とても、あたしの気分を昂揚させている。
「史上初の、神格適合者の同盟結成。突如湧いたこの異物は、序盤は様子見に陥りやすい神話代理戦争を大きく加速させる因子(ファクター)になる。きっと雷火くんが起点となって、各勢力はこれからドンドン動いていくよ……楽しみだね!」
あたしは回る。まだまだ回る。
「……なんか、ゼウス様しばらく会わない内に変わりましたね」
「そう?」
小首を傾げるあたしに、アポロンは深々と頷いた。
「……あうっ」
くるくるしながら首を傾げたら目が回ってしまった。
ちょっと気持ち悪くなってしまったが、昂揚感は続いている。
早く。
早く。
できるだけ早く。
いくらでも早く。
光よりも早く。
カミサマよりも早く。
あらゆる敵を踏み越えて、早くあたしのところまで来てね。
おにーちゃん。